2008年12月15日
見事な調度で調えられた部屋で、椅子に腰掛けた一人の青年が、少し離れて立つ官吏らしき相手と向かい合っていた。
青年の座る豪華な彫刻の施された椅子の傍らには、側に仕える者らしき数人が控えている。
室内に居るのは、みな男であった。
一番身分が上と見える青年は、年の頃は二十歳か、それをいくつか過ぎた位だろうか。
すっきりと鼻筋の通った、端正な顔立ちの若者である。
秀でた額に、青年らしい凛々しい眉の下の、澄んだ泉のような、黒い瞳。
身に纏う雰囲気は温かく、穏やかな人柄を思わせるが、相手を真っ直ぐに見詰める眼差しには、意思の強さも窺える。
ふっくらとした形の良い唇は固く引き結ばれて、どこか緊張感を感じさせるその表情が、見る者の目に、女人とは違う硬質な美しさを印象付けていた。
やがて、何事か説明していたらしい官吏が言葉を切ると、青年は小さく眉を寄せて、目の前の相手に訝し気に問うた。
「絵を?」
「はい。新たに後宮に入られた方々のお姿を絵師に描かせ、王に献上するのが、慣わしなのでございます」
「そうか」
「その事につきまして、お耳に入れたき事がございます」
「申してみよ」
「は。この後宮に集められし王の妃は、三千人。王の寵をお受けになられるには、まずはあなた様のお姿が、王の目に留まらなければなりませぬ」
「――」
「そこで絵師の協力が、重要になるのでございます」
「・・・賄賂を渡せと申すのか?」
「畏れながら、どのお方様もそうなさっておいででございます」
「よい。そのような配慮は無用だ」
「は?し、しかしながら・・・」
「無用だと申しておる。後宮に入った者の決まりとあらば、絵は描かせよう。だが賄賂を与えて手心を加えて貰おうなどと、そのような事は思わぬ」
「・・・真に宜しいのでございますか」
「構わぬ。絵師は参っているのであろう。早く呼ぶがよい」
「・・・は。畏まりましてございます」
どこか不満気な色を浮かべた官吏が下がると、傍らに控え遣り取りを聞いていた供の者が、心配そうに声を掛けてきた。
「博雅さま、真に宜しいのでございますか?」
「よいのだ。絵師に賄賂を贈るなど、そのような卑しき振る舞いをするつもりはない」
「は、申し訳ございませぬ。・・・ですが他の方々は皆様、そうなさっておられるとの由、これでは王のお目に留まり、ご寵愛をお受けになる機会が得られぬのではないかと・・・」
「――・・・」
「博雅さまが寵妃となられれば、お父上様も安堵なされましょう。ご一族も国の領土も漢の驚異に晒される事なく、安泰となりまする」
「・・・わかっておる」
王の寵愛を受ける。
それは男である己が、男の王を受け入れ、抱かれるという事だった。
(今更何を怯む。覚悟を決めて、ここへ来たのではないか)
無意識に唇を噛んでいた事に気付いた博雅は、自嘲の笑みを浮かべると、そう己を叱咤した。
漢の都、長安。
博雅のいるこの場所は、強国漢を統べる第十代皇帝、元帝の居城の一画にある、皇帝の側室達が住まいする後宮であった。
自らの国と民を守る為。
王族に生まれた者の、務めとして。
強国である漢に従い、恭順の意を示す為に、長安より遥か彼方の故国を離れて、ここへ来た。
それが、女よりも男を好む性癖の持ち主である漢王、元帝の、数多いる男の側室の一人として、生涯を後宮の奥深くで生きるという意味だと、知った上でである。
現在四十三歳の元帝は、色を好むこと盛んな皇帝としても、周辺諸国にその名を知られていた。
長安の後宮には、国内は元より、漢の威光の及ぶ広大な地域から、歳若く見目麗しい青年が、多数集められているという噂だった。
その数は、三千人とも聞く。
それを思えば、選ばれたのが自分であったのは、むしろ幸運だったのかもしれない。
博雅は、ふと、そう思った。
もしも元帝が女色を好む男であれば、姉や妹達が、側室として後宮へと送られていただろう。
優しくたおやかで、美しい姉。故郷の草原に咲く可憐な花のような、愛らしい妹たち。
豪奢でありながらも冷たい、この後宮のような、心寒い場所ではなく。
皆には日の当たる自由な世界で、幸せに生きて欲しかった。
自分は、第三皇子だ。たとえ故国から消えようとも、国と一族の将来に、何ら障りにはならぬ。
(良かったのだ、これで――)
もはや戻る事の叶わぬ、懐かしい故郷の風景が瞼の裏側を通り過ぎていくのを感じながら、博雅はそっと目を閉じた。
***
それから二月が過ぎた。
元帝の目に、絵師への賄賂を拒んだ博雅の肖像画が留まる事はなかったのか、後宮に入って以来一度も王の姿を見る事なく、博雅は豪奢な後宮の片隅で、ひっそりと日々を過ごしていた。
博雅がそうであるように、後宮には漢への従属を示す為に送られて来た、周辺諸国の為政者一族の若者も少なくない。
半ば人質でもある彼らには、後宮という限られた世界の中でさえ、自由を謳歌する生活は望むべくもなかった。
(俺は一体、ここで何をしているのだろうな・・・)
美しい中庭に臨む、後宮の一画。
咲き乱れる色とりどりの花々に、午後の強い陽射しが照りつけている。
鮮やかな赤い瓦を葺いた庇の下、風の通る日陰に置かれた長椅子に腰掛けて庭を眺めながら、博雅はぼんやりとそう思った。
馬で風を切って野を駆けることも、愛する楽を心ゆくまで奏でる事も、叶わぬ生活。
これで自分は、本当に生きていると言えるのだろうか。
重い溜息を一つ吐いて、博雅は懐に手を入れると、どんな時も手放した事のない愛笛を取り出した。
指先でそっと、愛おし気に哥を撫でる。だが唇に宛て、その音色を紡ぎ出す事は出来ない。
後宮において、笛を自由に奏でる事は禁じられているのだ。
理由は明らかにされていない。
噂によると、かつて、遠くまで音の届く笛を外部とのやり取りに利用して、後宮から逃走を図った者がいたらしい。
以来、王の許しがない限り、後宮て笛を吹く事は一切認められなくなったという話だった。
「すまぬな・・・葉双」
ぽつりと呟いた声に、隠しようのない寂しさが滲んだ。
物心がついた時にはもう、楽は己の傍らにあった。嬉しい時、悲しい時、己の心を託し、何よりも素直に表わす事が出来たのは、楽だった。
今、ここで、思いのままに葉双を奏でられたなら。どれ程心が慰められることだろう。
手の中にある笛をぎゅっと握り締めて、博雅は固く目を瞑った。
たとえ、生きる意味を見失ったとしても。
この境涯にどれほど絶望しようとも、自ら命を絶つことは出来ない。
そのような不始末を起こせば、たちまち一族に累が及ぶであろう事は、明白だった。
(ただここに居る事だけが、俺に出来る全てだということか)
くつり、と自嘲の笑みを零した博雅は、ふと、国で別れた幼なじみでもある実忠を思った。
漢王の側室として後宮へ入る事が決まった時、誰よりも憤り、涙を流して悲しんでくれた、心優しい幼なじみ。
(実忠・・・自分も共に行くと、最後まで言ってくれたな・・・)
実忠の父は、王である博雅の父の側近である。その嫡男である実忠が、敵国漢の後宮に入る博雅の供として国を出るなど、到底認められる筈がなかったのであるが。
それにしても、と思う。
こうして今の境遇を思えば、自分に妻がないのは、幸いだった。
たとえ既に伴侶を得ていたとしても、後宮へ送られるのは、恐らく自分だっただろう。ならば、己の為に泣き、悲しむ者は、一人でも少ない方が良い。
色恋に疎いとからかわれる事の多かった自分だが、この性格が幸いしたな。
博雅が自嘲気味にそう思った時。
「博雅様」
建物の奥から己を呼ぶ声がして、振り向くと表との取次ぎ役である宦官が姿を見せた。
「こちらにおいででございましたか」
「何か用か」
「はい」
問うた博雅に向かい、宦官の男は腕を揃え頭を下げる礼を取ってから顔を上げ、恭しく言った。
「元帝のお召しにございます」
***
踏み出す足が震えそうになるのを堪えながら、博雅は宦官の後に付いて、謁見の間へと向かっていた。
漢へ赴く決意をした時から、いつかこのような日が来るかもしれぬと、覚悟はしていた。
だが。
胸には、腑に落ちない思いもある。
元帝の伽の相手として呼ばれるのであれば、日が落ちてからであるのが普通だ。
日が高く昇ったばかりのこのような時刻に、自分が呼ばれたのは何故なのか。
(考えても始まらぬ)
何が起ころうと、受け入れるしかないのだ。
ただ。
己の誇りを失う振る舞いだけは、するまい。
そう心に誓い、博雅は顔を上げると、毅然として前を見詰めた。
「皇帝陛下のお出ましにございます」
謁見の間に、宦官の声が響く。
床に膝を着き、漢式の礼を取っていた博雅は、一層深く頭を垂れた。
後宮と政務を司る城の表との間にある、一際豪華な、謁見の間である。
部屋の奥は博雅の控える床より数段高くなっており、階を上がった中央には、巨大な椅子が置かれていた。
皇帝の座る玉座であろう。
そして博雅の前には、見知らぬ一人の男が床に膝を着き、同じように漢式の礼を取って控えていた。
博雅が謁見の間に入った時には、既に居た者だ。
こちらに背中を向けているため、その顔は見えない。
やはり召し出された後宮の側室かとも思ったが、身に纏う装束は、漢の物とは違って見える。
その時だった。
「待たせたな、単于殿」
石の床を歩むコツコツという沓音と共に、野太い男の声が聞こえた。
後宮に入って以来初めて耳にする、元帝の声に違いない。
思わず身体が固くなるのがわかった。
「いえ、いかほども待たされてはおりませぬ」
前に控える男が顔を上げた気配があって、涼やかな声がそう応じた。
漢の皇帝を前にしながら、緊張した様子もなく、落ち着き払った声である。
(単于・・・?)
元帝の呼びかけを胸の中で反芻して、博雅ははっとした。
単于とは、匈奴の君主の称号ではないか?
「約束のものを遣わそう」
玉座に着いた元帝は、博雅には声を掛ける事無く、機嫌の良い声で言った。
「我が後宮におる后達は皆男ゆえ、跡取りを産む事は適わぬがな。約束通り、この者をそなたに遣わす。我が漢と匈奴の盟約はより堅固となり、和睦は後々の世まで続こうぞ」
(――!)
頭を垂れたまま元帝の言葉を聞いた博雅は、その内容を理解した瞬間、全身から血の気が引いて行くのを感じた。
漢の北方に位置する遊牧国家である匈奴は、長年に亘り漢の脅威となってきた。
何代もの皇帝の時代に於いて、戦と和平が繰り返されてきたのである。
その匈奴の君主がこの長安を訪れ、漢と和睦を結ぶ事になった。
そうした噂を、博雅もしばらく前に耳にしていた。
では――、目の前に控えているこの男が、匈奴の単于なのか。
そして自分は・・・漢の皇帝から匈奴の単于へと、譲り渡されたという事なのか。
「博雅と申したか」
「・・・はい」
元帝に名を呼ばれ、平静を保とうと努めながらも、返した応えが微かに震えた。
「面を上げよ」
「――・・・」
頭を上げて上体を起こした博雅は、伏せていた視線を上げると、上段の玉座に座した、初めて見えるこの国の最高権力者を、ゆっくりと見詰めた。
「!?」
博雅を見た元帝の顔に、明らかな驚きの色が浮かんだ。
その意味が分からず、訝しく思った博雅の耳に、
「これは美しい」
先程と同じ声が聞こえ、はっと視線を向けたが。
声の主である匈奴の単于は、再び元帝に相対していて、その顔をはっきりと認める事は出来なかった。
「これ程に美しい御方を賜るとは、ご厚意、有り難くお受け致しまする」
「う・・うむ」
元帝はどこかぎこちなく頷くと、博雅に向かい
「我が漢と匈奴の和睦が成った。めでたき盟約の証として、そなたを匈奴の単于殿に遣わす。これからは、心を込めて単于殿に仕えるがよい」
そう告げて立ち上がった。
「後の事は石顕に任せてある。ではな、単于殿。此度は遠路をご苦労であった」
「は」
再び礼を取った匈奴の単于にちらりと視線を向けてから、元帝はじっと博雅を見詰めた。
「!」
慌てて頭を下げた博雅は、自分へと注がれる元帝の視線を感じて、思わず身を竦めた。
これまでに向けられた事のない、色を含んだ絡み付くような粘つく視線に、ゾクリと背中が小さく粟立つ。
これは、如何した事ぞ。
博雅を凝視する皇帝の胸には、疑問と憤懣とした想いが渦巻いていた。
長年の懸案だった匈奴との和が成り、長安まで訪れた単于に側室の一人を与えようと約したのは、昨夜の宴の席での事である。
単于が女を好む普通の男であれば、与えた者を側近にするなり、戦に使うなり、好きにすればよい。
寵愛する側室以外の者であれば、他国に与えてやっても、何ら問題はない。
とはいうものの、いざ一人を選ぶとなると、惜しい気もする。
ならば一番醜い者を選んで、単于にくれてやる事にしよう。
そう思い、数多ある肖像画の中から選んだ者――それが、博雅だったのである。
だが、今目の前にいる青年は、肖像画に描かれていた人物とは全くの別人といってよい美しさだった。
容姿だけで選ばれ後宮へと入った、身分卑しき者ではあるまい。
凛とした品のある佇まいと、清冽な眼差しが、それを物語っている。
そして衣越しにでもわかる、均整の取れたしなやかな肢体に、目が釘付けになった。
このような麗質の者が、後宮に居ったとは。
博雅を譲った事が悔やまれるが、今更他の者と取り替える事など、出来よう筈もない。
元帝は沓音も高く謁見の間を後にすると、側に付き従っていた宦官に向かって、荒々しく怒鳴った。
「絵師を、毛延寿を呼べ!」
***
元帝の去った謁見の間には、博雅と匈奴の単于、元帝の側近である宦官の石顕が残された。
「――・・・」
突然自分の身に起こったあまりの変化に、どう対応してよいのかわからない。
床に膝を着いたまま、呆然と動けずにいると、単于と石顕の遣り取りが聞こえた。
「予定通り、このまま出立する」
「畏まりましてございます。では、博雅様の輿を、ご用意致しましょう」
自分の事だと頭では理解するが、感情が追いつけず、まるで他人の事のようだと、混乱する頭でちらりと思った。
とても長く感じられた時間は、だがほんの僅かな間だったのだろう。
単于と石顕の話が、終わったようだった。
カツカツ・・・
磨き込まれた大理石の床に響く沓音が、段々と近付いてくる。
その沓音は、博雅のすぐ目の前で止まった。
見慣れぬ形の沓が視界に入ったが、顔を上げる事が出来ない。
身体を固くしたまま動かずにいると、
「!」
目の前に、すっと白い手が差し出された。
長い指を持ったその手は透ける様に美しく、博雅は一瞬、その手に見蕩れた。
「――手を」
頭上から聞こえた、微かに苦笑の響きが交じる声。
思わず顔を上げた博雅の目に、映った相手は。
「!」
知らず、大きく目を瞠っていた。
勇猛果敢な戦ぶりで知られる匈奴民族は、粗野で荒々しい野蛮な民だと、他の民族から恐れられている。
だが今、博雅の目の前に立っている人物は、そうした噂の印象とは、まるでかけ離れた容姿の持ち主だった。
抜けるように白い、花のような顔(かんばせ)。
すっと筆で描いたような、細く形の良い眉。
心の内を見透かされそうに思う、鋭利な刃物のように鋭い眼は、色素の薄い、僅かに青味がかった不思議な色をしている。
血を塗ったように赤い唇。
新月の闇を思わせる、頭上で結い上げ肩下まで流れる、漆黒の髪。
これ程に美しい男には、三千人の美青年がいると言われるここ元帝の後宮でも、出会ってはいない。
言葉もなく自分を見上げている博雅に、目の前の男は苦笑を深めて手を引くと、床に片膝を着いて身体を屈め、博雅と視線を合わせた。
「聞いた通り、そなたの身はこの俺が貰い受けた」
流暢な漢の言葉である。
「急かせて悪いが、ここでの用は済んだのでな。今から国へ戻る。一緒に来い」
有無を言わせぬ調子で言い切り、立ち上がった相手を見上げて、博雅は漸く我に返った。
今だ胸の内は思い乱れ、混乱していたが、いつまでも床に蹲っている訳にはいかない。
ふらつく足に力を入れゆっくりと立ち上がると、向かい合う形になった男の端麗な眼が、満足気に細くなった。
長身の博雅よりも、背が高い。
「博雅といったな」
「・・・はい」
「来い、博雅」
男はそう言うと、大きく開け放たれた、謁見の間から表へと通じる扉へ向かって歩き出した。
「――・・・」
二度と出られぬと覚悟していた後宮を出て、あの扉の向こう、外の世界へ――?
歓喜に胸が震えるが、それは同時に、言い知れぬ不安に慄く心でもあった。
(俺は・・・匈奴へ行くのか?)
この、恐ろしい程に美しい、北国の王と。
胸で渦巻く様々な思いに捕らわれ、一歩を踏み出す事が出来ない。
開かれた扉と、長身の端正な後姿を見詰めて立ち尽くす博雅に気が付いたのか、新たな主となった男が扉の手前で振り返った。
「早く来い、博雅」
それから、ふと気付いたようにこう言った。
「俺の名を、まだ告げていなかったな」
「――」
無言で見詰める博雅に、白皙の美貌が小さく笑んで。
「晴明だ」
赤い唇が告げた。
続く
青年の座る豪華な彫刻の施された椅子の傍らには、側に仕える者らしき数人が控えている。
室内に居るのは、みな男であった。
一番身分が上と見える青年は、年の頃は二十歳か、それをいくつか過ぎた位だろうか。
すっきりと鼻筋の通った、端正な顔立ちの若者である。
秀でた額に、青年らしい凛々しい眉の下の、澄んだ泉のような、黒い瞳。
身に纏う雰囲気は温かく、穏やかな人柄を思わせるが、相手を真っ直ぐに見詰める眼差しには、意思の強さも窺える。
ふっくらとした形の良い唇は固く引き結ばれて、どこか緊張感を感じさせるその表情が、見る者の目に、女人とは違う硬質な美しさを印象付けていた。
やがて、何事か説明していたらしい官吏が言葉を切ると、青年は小さく眉を寄せて、目の前の相手に訝し気に問うた。
「絵を?」
「はい。新たに後宮に入られた方々のお姿を絵師に描かせ、王に献上するのが、慣わしなのでございます」
「そうか」
「その事につきまして、お耳に入れたき事がございます」
「申してみよ」
「は。この後宮に集められし王の妃は、三千人。王の寵をお受けになられるには、まずはあなた様のお姿が、王の目に留まらなければなりませぬ」
「――」
「そこで絵師の協力が、重要になるのでございます」
「・・・賄賂を渡せと申すのか?」
「畏れながら、どのお方様もそうなさっておいででございます」
「よい。そのような配慮は無用だ」
「は?し、しかしながら・・・」
「無用だと申しておる。後宮に入った者の決まりとあらば、絵は描かせよう。だが賄賂を与えて手心を加えて貰おうなどと、そのような事は思わぬ」
「・・・真に宜しいのでございますか」
「構わぬ。絵師は参っているのであろう。早く呼ぶがよい」
「・・・は。畏まりましてございます」
どこか不満気な色を浮かべた官吏が下がると、傍らに控え遣り取りを聞いていた供の者が、心配そうに声を掛けてきた。
「博雅さま、真に宜しいのでございますか?」
「よいのだ。絵師に賄賂を贈るなど、そのような卑しき振る舞いをするつもりはない」
「は、申し訳ございませぬ。・・・ですが他の方々は皆様、そうなさっておられるとの由、これでは王のお目に留まり、ご寵愛をお受けになる機会が得られぬのではないかと・・・」
「――・・・」
「博雅さまが寵妃となられれば、お父上様も安堵なされましょう。ご一族も国の領土も漢の驚異に晒される事なく、安泰となりまする」
「・・・わかっておる」
王の寵愛を受ける。
それは男である己が、男の王を受け入れ、抱かれるという事だった。
(今更何を怯む。覚悟を決めて、ここへ来たのではないか)
無意識に唇を噛んでいた事に気付いた博雅は、自嘲の笑みを浮かべると、そう己を叱咤した。
漢の都、長安。
博雅のいるこの場所は、強国漢を統べる第十代皇帝、元帝の居城の一画にある、皇帝の側室達が住まいする後宮であった。
自らの国と民を守る為。
王族に生まれた者の、務めとして。
強国である漢に従い、恭順の意を示す為に、長安より遥か彼方の故国を離れて、ここへ来た。
それが、女よりも男を好む性癖の持ち主である漢王、元帝の、数多いる男の側室の一人として、生涯を後宮の奥深くで生きるという意味だと、知った上でである。
現在四十三歳の元帝は、色を好むこと盛んな皇帝としても、周辺諸国にその名を知られていた。
長安の後宮には、国内は元より、漢の威光の及ぶ広大な地域から、歳若く見目麗しい青年が、多数集められているという噂だった。
その数は、三千人とも聞く。
それを思えば、選ばれたのが自分であったのは、むしろ幸運だったのかもしれない。
博雅は、ふと、そう思った。
もしも元帝が女色を好む男であれば、姉や妹達が、側室として後宮へと送られていただろう。
優しくたおやかで、美しい姉。故郷の草原に咲く可憐な花のような、愛らしい妹たち。
豪奢でありながらも冷たい、この後宮のような、心寒い場所ではなく。
皆には日の当たる自由な世界で、幸せに生きて欲しかった。
自分は、第三皇子だ。たとえ故国から消えようとも、国と一族の将来に、何ら障りにはならぬ。
(良かったのだ、これで――)
もはや戻る事の叶わぬ、懐かしい故郷の風景が瞼の裏側を通り過ぎていくのを感じながら、博雅はそっと目を閉じた。
***
それから二月が過ぎた。
元帝の目に、絵師への賄賂を拒んだ博雅の肖像画が留まる事はなかったのか、後宮に入って以来一度も王の姿を見る事なく、博雅は豪奢な後宮の片隅で、ひっそりと日々を過ごしていた。
博雅がそうであるように、後宮には漢への従属を示す為に送られて来た、周辺諸国の為政者一族の若者も少なくない。
半ば人質でもある彼らには、後宮という限られた世界の中でさえ、自由を謳歌する生活は望むべくもなかった。
(俺は一体、ここで何をしているのだろうな・・・)
美しい中庭に臨む、後宮の一画。
咲き乱れる色とりどりの花々に、午後の強い陽射しが照りつけている。
鮮やかな赤い瓦を葺いた庇の下、風の通る日陰に置かれた長椅子に腰掛けて庭を眺めながら、博雅はぼんやりとそう思った。
馬で風を切って野を駆けることも、愛する楽を心ゆくまで奏でる事も、叶わぬ生活。
これで自分は、本当に生きていると言えるのだろうか。
重い溜息を一つ吐いて、博雅は懐に手を入れると、どんな時も手放した事のない愛笛を取り出した。
指先でそっと、愛おし気に哥を撫でる。だが唇に宛て、その音色を紡ぎ出す事は出来ない。
後宮において、笛を自由に奏でる事は禁じられているのだ。
理由は明らかにされていない。
噂によると、かつて、遠くまで音の届く笛を外部とのやり取りに利用して、後宮から逃走を図った者がいたらしい。
以来、王の許しがない限り、後宮て笛を吹く事は一切認められなくなったという話だった。
「すまぬな・・・葉双」
ぽつりと呟いた声に、隠しようのない寂しさが滲んだ。
物心がついた時にはもう、楽は己の傍らにあった。嬉しい時、悲しい時、己の心を託し、何よりも素直に表わす事が出来たのは、楽だった。
今、ここで、思いのままに葉双を奏でられたなら。どれ程心が慰められることだろう。
手の中にある笛をぎゅっと握り締めて、博雅は固く目を瞑った。
たとえ、生きる意味を見失ったとしても。
この境涯にどれほど絶望しようとも、自ら命を絶つことは出来ない。
そのような不始末を起こせば、たちまち一族に累が及ぶであろう事は、明白だった。
(ただここに居る事だけが、俺に出来る全てだということか)
くつり、と自嘲の笑みを零した博雅は、ふと、国で別れた幼なじみでもある実忠を思った。
漢王の側室として後宮へ入る事が決まった時、誰よりも憤り、涙を流して悲しんでくれた、心優しい幼なじみ。
(実忠・・・自分も共に行くと、最後まで言ってくれたな・・・)
実忠の父は、王である博雅の父の側近である。その嫡男である実忠が、敵国漢の後宮に入る博雅の供として国を出るなど、到底認められる筈がなかったのであるが。
それにしても、と思う。
こうして今の境遇を思えば、自分に妻がないのは、幸いだった。
たとえ既に伴侶を得ていたとしても、後宮へ送られるのは、恐らく自分だっただろう。ならば、己の為に泣き、悲しむ者は、一人でも少ない方が良い。
色恋に疎いとからかわれる事の多かった自分だが、この性格が幸いしたな。
博雅が自嘲気味にそう思った時。
「博雅様」
建物の奥から己を呼ぶ声がして、振り向くと表との取次ぎ役である宦官が姿を見せた。
「こちらにおいででございましたか」
「何か用か」
「はい」
問うた博雅に向かい、宦官の男は腕を揃え頭を下げる礼を取ってから顔を上げ、恭しく言った。
「元帝のお召しにございます」
***
踏み出す足が震えそうになるのを堪えながら、博雅は宦官の後に付いて、謁見の間へと向かっていた。
漢へ赴く決意をした時から、いつかこのような日が来るかもしれぬと、覚悟はしていた。
だが。
胸には、腑に落ちない思いもある。
元帝の伽の相手として呼ばれるのであれば、日が落ちてからであるのが普通だ。
日が高く昇ったばかりのこのような時刻に、自分が呼ばれたのは何故なのか。
(考えても始まらぬ)
何が起ころうと、受け入れるしかないのだ。
ただ。
己の誇りを失う振る舞いだけは、するまい。
そう心に誓い、博雅は顔を上げると、毅然として前を見詰めた。
「皇帝陛下のお出ましにございます」
謁見の間に、宦官の声が響く。
床に膝を着き、漢式の礼を取っていた博雅は、一層深く頭を垂れた。
後宮と政務を司る城の表との間にある、一際豪華な、謁見の間である。
部屋の奥は博雅の控える床より数段高くなっており、階を上がった中央には、巨大な椅子が置かれていた。
皇帝の座る玉座であろう。
そして博雅の前には、見知らぬ一人の男が床に膝を着き、同じように漢式の礼を取って控えていた。
博雅が謁見の間に入った時には、既に居た者だ。
こちらに背中を向けているため、その顔は見えない。
やはり召し出された後宮の側室かとも思ったが、身に纏う装束は、漢の物とは違って見える。
その時だった。
「待たせたな、単于殿」
石の床を歩むコツコツという沓音と共に、野太い男の声が聞こえた。
後宮に入って以来初めて耳にする、元帝の声に違いない。
思わず身体が固くなるのがわかった。
「いえ、いかほども待たされてはおりませぬ」
前に控える男が顔を上げた気配があって、涼やかな声がそう応じた。
漢の皇帝を前にしながら、緊張した様子もなく、落ち着き払った声である。
(単于・・・?)
元帝の呼びかけを胸の中で反芻して、博雅ははっとした。
単于とは、匈奴の君主の称号ではないか?
「約束のものを遣わそう」
玉座に着いた元帝は、博雅には声を掛ける事無く、機嫌の良い声で言った。
「我が後宮におる后達は皆男ゆえ、跡取りを産む事は適わぬがな。約束通り、この者をそなたに遣わす。我が漢と匈奴の盟約はより堅固となり、和睦は後々の世まで続こうぞ」
(――!)
頭を垂れたまま元帝の言葉を聞いた博雅は、その内容を理解した瞬間、全身から血の気が引いて行くのを感じた。
漢の北方に位置する遊牧国家である匈奴は、長年に亘り漢の脅威となってきた。
何代もの皇帝の時代に於いて、戦と和平が繰り返されてきたのである。
その匈奴の君主がこの長安を訪れ、漢と和睦を結ぶ事になった。
そうした噂を、博雅もしばらく前に耳にしていた。
では――、目の前に控えているこの男が、匈奴の単于なのか。
そして自分は・・・漢の皇帝から匈奴の単于へと、譲り渡されたという事なのか。
「博雅と申したか」
「・・・はい」
元帝に名を呼ばれ、平静を保とうと努めながらも、返した応えが微かに震えた。
「面を上げよ」
「――・・・」
頭を上げて上体を起こした博雅は、伏せていた視線を上げると、上段の玉座に座した、初めて見えるこの国の最高権力者を、ゆっくりと見詰めた。
「!?」
博雅を見た元帝の顔に、明らかな驚きの色が浮かんだ。
その意味が分からず、訝しく思った博雅の耳に、
「これは美しい」
先程と同じ声が聞こえ、はっと視線を向けたが。
声の主である匈奴の単于は、再び元帝に相対していて、その顔をはっきりと認める事は出来なかった。
「これ程に美しい御方を賜るとは、ご厚意、有り難くお受け致しまする」
「う・・うむ」
元帝はどこかぎこちなく頷くと、博雅に向かい
「我が漢と匈奴の和睦が成った。めでたき盟約の証として、そなたを匈奴の単于殿に遣わす。これからは、心を込めて単于殿に仕えるがよい」
そう告げて立ち上がった。
「後の事は石顕に任せてある。ではな、単于殿。此度は遠路をご苦労であった」
「は」
再び礼を取った匈奴の単于にちらりと視線を向けてから、元帝はじっと博雅を見詰めた。
「!」
慌てて頭を下げた博雅は、自分へと注がれる元帝の視線を感じて、思わず身を竦めた。
これまでに向けられた事のない、色を含んだ絡み付くような粘つく視線に、ゾクリと背中が小さく粟立つ。
これは、如何した事ぞ。
博雅を凝視する皇帝の胸には、疑問と憤懣とした想いが渦巻いていた。
長年の懸案だった匈奴との和が成り、長安まで訪れた単于に側室の一人を与えようと約したのは、昨夜の宴の席での事である。
単于が女を好む普通の男であれば、与えた者を側近にするなり、戦に使うなり、好きにすればよい。
寵愛する側室以外の者であれば、他国に与えてやっても、何ら問題はない。
とはいうものの、いざ一人を選ぶとなると、惜しい気もする。
ならば一番醜い者を選んで、単于にくれてやる事にしよう。
そう思い、数多ある肖像画の中から選んだ者――それが、博雅だったのである。
だが、今目の前にいる青年は、肖像画に描かれていた人物とは全くの別人といってよい美しさだった。
容姿だけで選ばれ後宮へと入った、身分卑しき者ではあるまい。
凛とした品のある佇まいと、清冽な眼差しが、それを物語っている。
そして衣越しにでもわかる、均整の取れたしなやかな肢体に、目が釘付けになった。
このような麗質の者が、後宮に居ったとは。
博雅を譲った事が悔やまれるが、今更他の者と取り替える事など、出来よう筈もない。
元帝は沓音も高く謁見の間を後にすると、側に付き従っていた宦官に向かって、荒々しく怒鳴った。
「絵師を、毛延寿を呼べ!」
***
元帝の去った謁見の間には、博雅と匈奴の単于、元帝の側近である宦官の石顕が残された。
「――・・・」
突然自分の身に起こったあまりの変化に、どう対応してよいのかわからない。
床に膝を着いたまま、呆然と動けずにいると、単于と石顕の遣り取りが聞こえた。
「予定通り、このまま出立する」
「畏まりましてございます。では、博雅様の輿を、ご用意致しましょう」
自分の事だと頭では理解するが、感情が追いつけず、まるで他人の事のようだと、混乱する頭でちらりと思った。
とても長く感じられた時間は、だがほんの僅かな間だったのだろう。
単于と石顕の話が、終わったようだった。
カツカツ・・・
磨き込まれた大理石の床に響く沓音が、段々と近付いてくる。
その沓音は、博雅のすぐ目の前で止まった。
見慣れぬ形の沓が視界に入ったが、顔を上げる事が出来ない。
身体を固くしたまま動かずにいると、
「!」
目の前に、すっと白い手が差し出された。
長い指を持ったその手は透ける様に美しく、博雅は一瞬、その手に見蕩れた。
「――手を」
頭上から聞こえた、微かに苦笑の響きが交じる声。
思わず顔を上げた博雅の目に、映った相手は。
「!」
知らず、大きく目を瞠っていた。
勇猛果敢な戦ぶりで知られる匈奴民族は、粗野で荒々しい野蛮な民だと、他の民族から恐れられている。
だが今、博雅の目の前に立っている人物は、そうした噂の印象とは、まるでかけ離れた容姿の持ち主だった。
抜けるように白い、花のような顔(かんばせ)。
すっと筆で描いたような、細く形の良い眉。
心の内を見透かされそうに思う、鋭利な刃物のように鋭い眼は、色素の薄い、僅かに青味がかった不思議な色をしている。
血を塗ったように赤い唇。
新月の闇を思わせる、頭上で結い上げ肩下まで流れる、漆黒の髪。
これ程に美しい男には、三千人の美青年がいると言われるここ元帝の後宮でも、出会ってはいない。
言葉もなく自分を見上げている博雅に、目の前の男は苦笑を深めて手を引くと、床に片膝を着いて身体を屈め、博雅と視線を合わせた。
「聞いた通り、そなたの身はこの俺が貰い受けた」
流暢な漢の言葉である。
「急かせて悪いが、ここでの用は済んだのでな。今から国へ戻る。一緒に来い」
有無を言わせぬ調子で言い切り、立ち上がった相手を見上げて、博雅は漸く我に返った。
今だ胸の内は思い乱れ、混乱していたが、いつまでも床に蹲っている訳にはいかない。
ふらつく足に力を入れゆっくりと立ち上がると、向かい合う形になった男の端麗な眼が、満足気に細くなった。
長身の博雅よりも、背が高い。
「博雅といったな」
「・・・はい」
「来い、博雅」
男はそう言うと、大きく開け放たれた、謁見の間から表へと通じる扉へ向かって歩き出した。
「――・・・」
二度と出られぬと覚悟していた後宮を出て、あの扉の向こう、外の世界へ――?
歓喜に胸が震えるが、それは同時に、言い知れぬ不安に慄く心でもあった。
(俺は・・・匈奴へ行くのか?)
この、恐ろしい程に美しい、北国の王と。
胸で渦巻く様々な思いに捕らわれ、一歩を踏み出す事が出来ない。
開かれた扉と、長身の端正な後姿を見詰めて立ち尽くす博雅に気が付いたのか、新たな主となった男が扉の手前で振り返った。
「早く来い、博雅」
それから、ふと気付いたようにこう言った。
「俺の名を、まだ告げていなかったな」
「――」
無言で見詰める博雅に、白皙の美貌が小さく笑んで。
「晴明だ」
赤い唇が告げた。
続く
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